
歴史を動かす行動理論 大山巌(おおやまいわお)を推察する 「日本人最初のルイ・ヴィト ンの顧客」
行動理論-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。
歴史上の人物もまたしかり。
その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。
何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。現代の我々に共通するものが見つかるかもしれない。
目次[非表示]
- 1.大山の苦悩
- 2.信の雄、大山の行動理論
- 3.大山が救ったもの
大山の苦悩
大山は、維新後の1869年渡欧し、1870年から1873年の3年間、ジュネーヴに留学した。その彼のもとに驚くべき手紙が届く。
「西郷隆盛が鹿児島に帰参する。それにあわせて多くの薩摩藩士が同調し帰郷した」というのである。
明治政府にとっては吉井友実自らが大山の下を訪ね、解決のための帰国を嘆願させるほどの一大事であった。
帰国した彼を待っていた事態は、彼の予測以上に深刻なものであった。
1874年、西郷を政府に復帰させるという、当時の状況からするとほぼ解決不可能とも思える責任を背負って彼は薩摩に戻る。大山の必死の説得も西郷の決断を変えることは叶わず、ならばと大山は「自らが西郷と行動を同じくし運命を共にする」ことを申し出るのである。
しかしそれすらも叶わなかった。「お前は日本に役立つべき人材である。俺の役に立つ必要はない」と西郷に怒鳴りつけられ大山は黙して去ることになる。
大山には西郷の想いがわかっていた。「新しい日本を創るには新政府を守るしかない。しかし不平武士たちの存在はその根底を揺るがしかねない。生まれたばかりの政府を守るには、自分が彼らと運命を共にするしかない」というものである。
大山はその想いがわかるがゆえに、西郷のもとを去った。去るしかなかった。
そしてついに最悪の事態が起こる。西南戦争である。大山は鎮圧のために再び薩摩に向かうこととなる。半年以上にわたる激戦の末、籠城した西郷への砲撃命令が大山に下る。翌日早朝西郷は自刃。
信の雄、大山の行動理論
大山巌、1842年薩摩に生まれ、のちに陸軍軍人、政治家となる。西郷隆盛の従兄弟にあたる人物であった。
大山は、「信頼し任せ、責任は取る」ことで、配下の人間からの信が厚く、その統率力は群を抜いていた。また彼の胆力は際立っていたという。
大山は6歳のころから薩摩藩の育成制度である郷中(ごじゅう)に入り、15歳年上である西郷隆盛から読み書きを教わった。
郷中での教えは「武士道の本義を実践せよ」「何事もよく相談の上処理すること」「無作法を避けよ」「嘘を言うな」「万事に質実剛健、忠孝の道に背かないこと」「弱いものいじめをするな」などがある。それらを学ぶ中で、薩摩武士の神髄である「卑怯を嫌い何事にも死を覚悟して臨む潔さと仲間を信じる精神」を大山は信念化していく。
彼の中にある「人とは本来弱い者である、と同時に信に応える者でもある(観)。ゆえに一度 信じたならば信じぬくことで(因)、それに応える動きを取るようになる(果)。信を信じよ(心 得モデル)」という行動理論が彼の言動を創り、周囲からの信頼を創り上げていく。
大山が救ったもの
大山は最大の恩人であり、師であり、兄とも慕う西郷の命を救うことはできなかった。が、 西郷の志を救い、日本政府を救い、新たな日本の礎を創ったのである。
西郷の自刃という形で終結した西南戦争における彼の胸中は当時は誰にもわからなかったか もしれない。事実遺族への弔慰金は突き返され、実の姉からは責め立てられた。が、月日を経て明治天皇巡幸に同行した際、 天皇は、「私は西郷に育てられた。西郷は今賊となっているが 私はそれが悔しい。西郷亡き今、私は大山を西郷の代わりと頼る」と語られるのである。
やはり信は信として返ってくる。彼の信念は正しかった。
大山の胆力の源泉は「人を信じる」点であると同時に「信は必ず信として返ってくるが、それには時が必要である」ということがわかっていた点にあるのであろう。
(おわり)
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