
歴史を動かす行動理論 本多忠勝(ほんだただかつ)を推察する 周囲の信を得る武将としての人柄と忠義一筋の生き方
行動理論-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。
歴史上の人物もまたしかり。
その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。
何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。現代の我々に共通するものが見つかるかもしれない。
目次[非表示]
- 1.すべてに称えられた戦人
- 2.忠勝の一筋
- 3.「一筋」を貫いた戦ぶり
すべてに称えられた戦人
彼は生涯57度の戦に挑み、一度たりとも傷を負わなかった。
武田軍の将から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称賛されたという。
通称平八郎、徳川四天王・ 徳川十六神将・徳川三傑のすべてに数えられる本多忠勝である。
配下の将達は「忠勝の指揮の下で戦うと、背中に盾を背負ているようなものだ」と称え、織田信長が自らの家臣に「花も実も兼ね備えた武将である」と伝えたともいわれる。
戦であるが故、勝ち負けは常であるものの、忠勝の特筆すべき点はその勝負強さではなく、 周囲の信を得る武将としての人柄であろう。忠勝が一度もかすり傷さえ負ったことがないというのは、その兵たちが忠勝を死に物狂いで守った証である。
忠勝の一筋
1548年、安祥松平家の最古参譜代、本多忠高の長男として生まれた。
幼い頃から徳川家康に仕え、 13歳で桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。
今川義元の死ののち、家康は 織田信長と清洲同盟を結ぶ。忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦する。
1563年三河一向一揆では本多一族の多くが敵となる中、家康側に残り武功を挙げる。
以後、忠勝は常に家康居城の城下に住み、旗本部隊の将としてあり続け、家康を守り続けることとなる。
愛槍は「蜻蛉切り」(とんぼきり)。刃長43・8㎝ の笹穂型の大身槍である。その名は穂先に止まった蜻蛉が2つになったという逸話に由来する。槍といえば4.5m の柄が使われるのが常であったが、蜻蛉切は6mもあり、「天下三名槍」の一つに数えられている。
彼は一向宗であった。「一向」とは「一筋」という意味であり、「一つのことに専念すること」 を表している。
その忠勝は三河一向一揆において、改宗している。
なぜならば忠勝が信じた「一筋」は「家康を天下人とすることが(因)、世の太平につながる(果)。なぜならば家康こそが唯一それができる人物である(観)家康を立てよ(心得モデル)」という信念であったからである。
1570年、姉川の戦いでは 家康本陣に迫る朝倉軍1万に対し単騎駆けを敢行、無謀である。 しかしこの時、必死に忠勝を救おうとする家康軍が動く。結果これが反撃となり、朝倉軍を討ち崩すことになる。
忠勝は「一筋」に家康を救おうとした。その「一筋」が彼自身をも救うことになるのである。
「一筋」を貫いた戦ぶり
1582年、本能寺の変が起きる。家康は忠勝を含む少数の者とともに堺にいた。
この時家康は取り乱した。「京都に向かい信長の後を追おう」というのである。
「家康を天下人とすることが 太平の世を創る」ということを「一筋」に信じていた忠勝は、家康を諌め、伊賀越えを行わせる。
1584年春、小牧・長久手の戦いでは、16万の大軍を誇る豊臣方の前に、徳川軍は苦戦。
忠勝はわずか500騎の兵を率いて豊臣の大軍の前に立ちはだかり、さらには単騎で川に乗り入れ馬の口を洗わせる姿を見せる。この振舞いに豊臣軍は進撃できなかったという。
忠勝は家康と和睦した秀吉に「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と問われる。「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えたという。
忠勝は秀吉から東国一の勇士と賞賛された。
(おわり)
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