
歴史を動かす行動理論 井伊直弼(いいなおすけ)を推察する 一期一会の精神 ~『茶湯一会集』より~
行動理論-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。
歴史上の人物もまたしかり。
その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。
何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。現代の我々に共通するものが見つかるかもしれない。
一期一会
「一期一会」という言葉を耳にしたことがある人は少なくないと思う。一生に一度だけしかないかもしれない出逢いを大切にしようとする茶の湯の言葉である。この言葉が井伊直弼の「茶湯一会集」から生まれていることは、あまり知られていないようである。
誰もがその名を知る「井伊直弼」。 日米修好通商条約に調印し、日本の開国近代化を断行した幕末期の江戸幕府大老。国内の反対勢力を粛清した安政の大獄からつながる桜田門外の変による暗殺。
「幕府しか見ず、日本の未来を見なかった保守派」というイメージで描かれることが多いが、彼は本当にそのような人物だったのか。
今回は、井伊直弼の行動理論を探ってみたい。
井伊直弼は1815年10月、彦根城の一角にある槻御殿で生まれた。
兄のいた直弼は、藩主を継ぐことはなく、通常ならば養子となって家を出ていく立場であった。
しかしなぜか養子縁組の話がなかなか成立しなかった直弼は、藩から三百俵の扶持を支給され質素な屋敷で暮らすことになる。
「世の中をよそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」と詠い、この屋敷を「埋木舎」と呼んだ。自分の人生が朽ちていくことはやむを得ないが、己の心だけは決して埋もれないという想いの表明であった。
事実、兵学・和歌・陶芸・禅・居合や華道・政治・海外事情などあらゆることに精力的に取り組んだ。
身に付けた文武が決して表に現れることはないと思いつつも、彼は一瞬一瞬に全力を注いだのである。
直弼の転機
1846年、直弼の道に大きな転期が訪れる。
兄の病死により1850年には十三代藩主、1858年には43歳で大老に就くことになるのである。
埋木舎で埋もれていくはずであった彼の人生は、ここから日本という国の進路を定める表舞台に出ていくことになる。
直弼の埋木舎での人生は15年に及んだが、この15年は埋もれていたのではなく、その後にやってくる舞台のために己を磨き続けた、大切な一瞬の積み重ねであった。
直弼の中には、「人生とは積み重ねである(観)。一瞬一瞬に全精力を傾けることこそが(因)、自分の人生を築き上げる(果)。故に一瞬を粗末にするな(心得モデル)」という行動理論が創り上げられていったのであろう。
日本の転機
そしてついに、日本そのものに転機が訪れる。1853年、四艘の黒船が浦賀沖に姿を現すのである。
アメリカが日本に迫った開国はさまざまな風を起こした。
鎖国か開国か、日本が二分三分する中、直弼は「幕府主導による開国こそが日本をさらに強くする」と考えていた。(諸説あり)
京の朝廷では孝明天皇が開国に否定的であり、国の考えは一つにまとまらない状態が長く続いていたが、大老となった直弼は己の意見を静かに、しかし真っ向から周囲の人間に説いていた。
そして1858年、日米修好通商条約を結び、自由な貿易の条件が整うのである。
だが、当然反対派も多く、水戸藩主・徳川斉昭は条約締結に反対し、京の公家を通して直弼排斥の密勅を天皇から出させることに成功する。
しかし斉昭のこの行為は定めに反するものであり、直弼は当然これに対して大老としての役目を果たさざるを得ない。これが安政の大獄である。
そして1860年、桃の節句の式典に出席するため駕籠の人となった直弼は桜田門外の変で、その役目を終えるのである。
余談ながら彼が残した茶の湯の精神に、一期一会に連なる「独座観念」というものがある。
「主人も客も、会が終わっても、互いへの心は残すものである。主人は客が見えなくなるまで見送り、席に戻ってこの一期一会の瞬間に感謝しながら一人で茶をたてる」
これこそが一期一会を単なる刹那主義と一線を画す精神とするのである。事を成した彼は籠の中で「独座観念」していたのであろう。
(おわり)
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