
歴史を動かす行動理論 高杉晋作(たかすぎしんさく)を推察する どのような行動理論に基づいて生き、死んだのか?
行動理論-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。
歴史上の人物もまたしかり。
その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。
何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。現代の我々に共通するものが見つかるかもしれない。
高杉という志士
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と伊藤博文にたたえられた彼は、自分の役どころをよく心得ていた。
己が主役ではない舞台には決して現れず、主役として登っている舞台であっても、己の出番が終わったと察すると、さっさと舞台を去ってしまうのである。
高杉晋作という男が登場すべき舞台は、必ず決定的な解決を迫られる場であり、そして彼の決断はことごとく状況を打開した。
忠義と繊細の男
高杉は1839(天保10)年8月に 長州藩士の家に生まれた。
「譜代の臣」ということが高杉家にとっての自負であり、自由奔放に生きたように見える晋作にしても、「自分は長州譜代の臣である(観)」という、「忠義」の行動理論に縛られていた。
高杉は亡命・脱藩と思われる行動をたびたび行っている。
当時、切腹、 お家断絶に値する大罪であるにもかかわらず藩の寛容さに助けられ、時にはむしろ重用されてさえいる。
彼の手紙には、「何卒風となり、雨となり、毛利御家の御興を祈るのみにござ候」とある。
尊王攘夷運動、下関戦争と奇兵隊創設、四境戦争の指揮など、一見豪胆に見える行動は、ガラスのように繊細な心の動きから生まれていたようでもある。
10歳の時、天然痘を患い、後遺症として顔にあばたが残った。「譜代の臣を継ぐ者」としては、それは屈辱以外の何物でもなく、それを埋めるかのように、強さ、逞しさを追い求めていったのである。
不相応な長刀を好んで身に着け、 極端に激烈な行動に出たことなど、全ては己の劣等を補完するための行動であったようにも見える。
1856年、父小平太宛に出されたものに始まる高杉が書いた手紙には、繊細で心弱い心情が垣間見える。
繊細な人物だけに、同志を求める想いも強く、信じた者には極めて素直に心を開き、心の悩みまでも訴えている。
松陰との出会い
高杉は19歳のとき、松下村塾を知る。吉田松陰との出逢いはその後の高杉の生涯を決定づけた。
吉田松陰から学んだ死生観が
「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」というものであった。
「己が死ぬことで朽ちないものを残せるならば、死ぬべき時である。生きることで大きなことを成せるのならば、それは生きるべき時である」というような意味である。
松陰から学ぶ中で、彼の中には「死も生も事を成すためのものである(観)。故に、事を成すこと第一とせよ。なぜならば、事を成し遂げて初めて(因)、生も死も意味あるものになる(果)」という行動理論が創り出されていく。
松下村塾での学問とは、知識をいかにして実行に移すか、日本の未来にどう活かすか、ということを学ぶことであった。
腺病質な少年は、その心弱さを埋めるように剣に没頭し、精神を高めるべき時期に吉田松陰と出会い、決断する英雄としての人生が方向づけられた。
下関戦争敗北から逆襲を図るための奇兵隊結成、四カ国連合艦隊との講和締結、四境戦争における緒戦、いずれも彼の強烈な忠義と決断によって壊滅的な状況を好転させている。
1867年3月、高杉の病状は悪化した。4月の未明、主治医の言葉により皆集まる中、彼は「おもしろきこともなき世をおもしろく(※)」 とまで書き、下の句を作ることなく筆を落とした。
「不朽の見込あらばいつでも死ぬべし」と学んでいた彼の、維新における舞台は27歳で幕を閉じた。
※辞世の句について、「おもしろきこともなき世に(を)おもしろく」の両説がある。
まさに、行動理論が歴史を動かすのである。
(おわり)
Amazon Kindleで『歴史を動かす行動理論』をお読みいただけます。