
歴史を動かす行動理論 板垣退助(いたがきたいすけ) 合理主義者・自由と平等の人「板垣退助」
行動理論-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。
歴史上の人物もまたしかり。
その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。
何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。現代の我々に共通するものが見つかるかもしれない。
目次[非表示]
- 1.合理主義者「板垣退助」
- 2.武人の合理
- 3.政治家としての合理
- 4.自由と平等の人「板垣退助」
合理主義者「板垣退助」
少年時代の彼は「本当に神罰が下るのか」を確かめるために、稲荷神社のお守りを厠に捨ててみたそうだ。
また、わんぱくすぎた彼は藩から二度の処罰を受けるが、そのうちの一つは「神田村に蟄居」というもの。 19歳の彼は「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など、当時一緒に食べると死ぬと信じられていた迷信を打ち破るために、わざわざ大勢の人の前で食べてみせ、無害であることを証明したともいう。
このように、彼は民に対して合理性を説きつつ、身分の上下を問わず庶人と関わる機会を得ていた。
板垣の家は曹洞宗であった。曹洞宗の本質は「仏心」である。
人は「仏の心」を持って生まれている。人が生きるということは、この仏心のまま、自分の命を大切にするように、全ての命を大切にして生きることである、と平等の心を説いている。
上士と郷士の身分が明確に区別されていた土佐藩の中で板垣は上士であったが、郷土に対し寛大だったことも有名である。
彼の中にある行動理論は、
「人は自由平等に生きるべき存在である(観)。また人は互いの自由と平等を守り合う存在であるべきである(観)」。ゆえに、「自分が動き始めることで(因)、世の人にその機会を提供できるはずである(果)」。「まず自らが行動せよ(心得モデル)」
というものである。
武人の合理
板垣退助といえば、真っ先に思い浮かぶのは「板垣死すとも自由は死せず」というフレーズであろう。
憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障など、自由民権運動と呼ばれる政治的運動の中心的人物でもある彼は、もともとは居合いをよくする武人であった。
戊辰戦争では土佐藩兵を率い、総督府の参謀として従軍した。当時は「乾」姓を名乗っていたが、甲府城を掌握した慶応4(1868)年、「旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して民衆の支持を得た方がよい」と考え、もともとの姓である「板垣」に戻した。
この策は新選組の撃破だけではなく、旧武田家家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちを懐柔するにも効果的な打ち手であった。人の心の機微を押さえ、理にかなった見事な策というほかない。
その後も、三春藩の無血開城、仙台藩・会津藩の攻略などの軍功を挙げている。
そのような武人板垣は、征韓論で敗れたことをきっかけにその職を辞し、その後自由民権運動へと走り始める。
政治家としての合理
何が武人としての自分を捨てさせ、 彼を自由民権運動へと導いたのか。
彼が初めて「『民』は平等でなければならない」と感じたのは、先に述べた戊辰戦争における会津攻めの際であった。この時、武の誉れ高い会津が大敗を喫したのは、「戦は日頃自分たちから搾取している武士の仕事で、自分たちには関係ない」と 考える領民の協力を得られなかったからである。
板垣は、「士と民が団結できるような国を築かなければならない。そのためには身分の上下をなくし、権利の平等と行動の自由がある社会こそが必要である」と考え始めるようになった。
また、共に「征韓論」を主張して敗れた西郷隆盛が西南戦争で命を落としたことも、彼に武人を捨てさせるきっかけになったようだ。
幕末に誰よりも武力による解決を主張していた武人板垣は、「戦という手法で古い体制を壊すことはできたが、新しい国を創るための方法論は戦ではない」と、より合理的に考え、「自由と平等」の名の下に日本を導く道を選んだのである。
自由と平等の人「板垣退助」
武人としても、政治家となってからも、板垣が目指したのは、「人が平等に生きていける社会の実現」であろう。おそらく武人のころの「士の平等」といった考えが、「民の平等」へと進化していったに違いない。
先にも触れたが、板垣家は曹洞宗であったが、板垣自身はプロテスタントの教えも学んだようである。板垣にとってプロテスタントは、「神の前に全ての人間は平等である」というキリスト教の教えを前提に、偶像崇拝ではなく、「信じる心のみが人を救う教え」と映っていたようだ。
「見えない何物かが人を平等にする」のではなく、「自分の心のあり方が人を平等にする」という教えが、 彼の合理主義とあいまってより明確に彼の行動を加速させていく。
帝国議会開設に向けて高知に戻っていた板垣は、初の衆議院議員総選挙に対応した後、立憲自由党を再興。 翌年には自由党に改称して党首に就任した。この自由党は第二次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣する。
理想とする社会を実現するために有効ならば、どのような手段を取ることもいとわない板垣は、長く対立していた大隈重信とも連携する。日本初の政党内閣である第一次大隈内閣に内務大臣として入閣し、政務に尽くすことになる。
残念ながら、自由民権運動の思想は、「基本的人権」を定めた日本国憲法が施行されるまで、本当の意味で成し遂げられることはなかった。
が、しかし、この流れを生み出したのは間違いなく板垣退助であろう。
(おわり)
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