歴史を動かす行動理論

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歴史を動かす行動理論 山内容堂(やまうちようどう)  決断するか否か……「流れに身を置くのが一番か」

行動理論-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。

歴史上の人物もまたしかり。

その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。

何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。現代の我々に共通するものが見つかるかもしれない。



目次[非表示]

  1. 1.時流にのまれる賢侯
  2. 2.僥倖(ぎょうこう)による藩主の座
  3. 3.藩主
  4. 4.維新の賢侯



時流にのまれる賢侯


武と詩、両方の才に恵まれながらも、本来ならば歴史の表舞台に出ることなく、その一生を終えるはずだった。「鯨海酔侯」(げいかいすいこう)と称し、自身を「一編の詩の中の人物」と見立てた「異常児」山内豊信、号を容堂という。


僥倖(ぎょうこう)による藩主の座


容堂は、土佐藩12代藩主、山内豊資の弟豊著と側室平石氏の聞に生まれ、1500石取りの分家の家督を継いでいる。


「飼いごろしの身」である彼は、武に向く体躯を持っていた。身の丈五尺六寸、大柄ながら敏捷な動きを可能にする強靭な腰を持ち、「居合いで飯が食える」とその師に言わしめたほどである。


領地も領民も、政に対する権限も、何一つ持たない彼は、君主として家中の信を得ることはない立場であった。


が、突如僥倖が訪れる。13代藩主、14代藩主が相次いで急死。順列として家督を継ぐはずの者はわずか3歳であったため、分家ではあるが当時22歳の容堂に白羽の矢が立つ。格別の推挙と異例の沙汰により、嘉永元(1848)年、藩主に就任した彼は、そのときどのような想いであったのだろうか。


「身のうちにある火」が向かう先を見いだせないままでいた彼が、その「場」を与えられたのである。戸惑いつつも、身震いする衝動を持って受け入れたに違いない。


馬は増鏡

乗り手は君よ

光り輝く御姿を


藩主として初めてのお国入りに際し、先例に従わず「愛馬増鏡で入る」ことを選んだために、城下で流行したヨサコイ節である。


彼は「平時の格式」ではなく「戦国の風」にその身を置きたがった。そのため、不信感を持つ家老と角力を取り、ことごとくを投げ飛ばすことで、肉体的畏怖感を与えるという行動にも出ている。


嘉永3年12月、従四位、土佐守に任じられるまでの問、彼はもっぱら学問をした。「庶民に生まれていれば、青史に残る学者になった」と評されるほど、天分があったようだ。



藩主

参政に起用した吉田東洋から彼は、韓非子こそ君主学であると学ぶ。韓非子の教えは「人は信頼すべからざるものである(観)。だから厳しい戒律を持って締め上げていく以外(因)、 人を統治するすべはない(呆)。峻烈な法によって威服させよ(心得モデル)」というものである。


松平春獄、伊達宗城、島津斉彬とも交流を持ち、幕末の四賢侯と称された彼は、安政の大獄を経て謹慎の身となるが、そのさなかに土佐ではクーデターが起こる。郷土(長宗我部侍)による土佐勤王党が、吉田東洋と対立し、文久2(1862)年に 束洋を暗殺するのである。  


もともと容堂から見れば、郷土は敵である。関ヶ原の戦いによって衰微した長宗我部氏は、徳川に仇なすものである。


彼はこのクーデターにより、ますます韓非子の教えを「正しきもの」 とその信念を強めた。その結果、東洋を暗殺した土佐勤王党の大弾圧に乗り出したのである。

弾圧は、彼にとって正義であった。



維新の賢侯


中岡慎太郎や坂本龍馬の仲介によって、薩摩藩と土佐藩が会談し、幕府排除と王政復古のための薩土盟約が成立する。ここから土佐全体が徐々に倒幕路線に傾いていくことになる。


しかし、歴史主義者である彼の中には、「薩長は関ヶ原の敗北者であり、幕府に対する二百数十年の遺恨があるが、土佐藩は関ヶ原のおかげで興っており、徳川の思は忘れることはできない」という想いがある。


つまり「徳川は恩人である。徳川の沙汰によって山内家は興っている。故に徳川を救わねばならない」というのが、彼自身の論理である。これが、彼を倒幕へと決断させなかった。


しかし、悲しいことに時代の大勢を読む力を併せ持っていた彼には、倒幕へと傾いた時代の勢いを止めることも、またできなかった。


その状況で、「大政を奉還する」という策は、まさに容堂にとっては妙案であった。これに彼はすがり、行動し、一時的には事が成ったかに見えたが、一度転がり出した時代の歯車は止まらなかった。エネルギーは消費されない限り消えることはない。


慶応4(1868)年、旧幕府側の発砲から戊辰戦争が始まる。容堂は土佐藩兵に対し、これには加わるなと厳命するも、板垣退助がこれを無視し、新政府軍に従軍する。


するとこれを聞いた容堂は、江戸攻めへ出発する土佐藩兵に、「天なお寒し。自愛せよ」の言葉を与えるのである。


鯨海酔候の行動理論


武と知の才を併せ持ち、戦国の詩篇の登場人物としての自らを描き、家中に対しては韓非子の行動理論であたる。徳川への感謝と時代の流れの間で東へ向かったり、西へ傾いた り、当時の志士から「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と言われた「鯨海酔侯」の複雑さはどこから生まれたのか。


彼自身、自分のことを韓非子的行動理論で見ていたのであろう。つまり「我は己の足で立つ事ができない者である(観)。だから、我が意で物事を決めたところで(因)、時流を変えることなどできない(果)。流れに身を置くのが一番(心得モデル)」というものである。


自らを描いた彼の詩がある。


壮士あにかくの如くあらんや

懦夫(だふ)のみこの病あり

医薬服すれどもきかず

欝積、もとよりわが性

日々唯、酒を飲む


壮士でありたいが、儒夫であることを知っているがために、腹立たしくも酒を飲むしかない、という意である。


時流に流される行動理論とは、決断することのできない行動理論である。


                                 (おわり)




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越膳 哲哉

越膳 哲哉

株式会社ジェック 越膳 哲哉 慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 非常勤講師 座右の銘:もっともだの雰囲気づくり、かたよらない・こだわらない・とらわれない

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