歴史を動かす行動理論

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歴史を動かす行動理論 土方歳三(ひじかたとしぞう)  「人は人は弱いものである。故に自らの力で自らを制御すべきだ。」

行動理論-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。

歴史上の人物もまたしかり。

その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。

何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。現代の我々に共通するものが見つかるかもしれない。



目次[非表示]

  1. 1.時流に抗う行動理論
  2. 2.農民から武士へ
  3. 3.土方の士道
  4. 4.滅びの美学、その正体
  5. 5.行動理論が時代を創る



時流に抗う行動理論


土方歳三といえば司馬遼太郎氏の『燃えよ剣』。そう思われる方も多いだろう。昭和37年からおよそ2年かけて『週刊文春』に連載された作品は、それまで「悪役集団」とされていた新撰組のイメージをガラリと変え、幕末に志高く生きた一人の青年の人生をイキイキと描き切った。


今回は、半世紀もの間、人々に憧憬を抱かせ続けている同小説から見る「土方歳三」像から、行動理論を考察していきたい。


 「行く年の 月日の流れ 蚊帳の外」

豊玉発句集に残される土方歳三の句である。


土方は、自らの信念に基づいて、 徹底的に時流に抗い続けた。高度に目的的な機能集団「新撰組」を組織し、さまざまな戦術を駆使し、「己の羽」で飛び続けた。

滅びゆく幕藩体制と共に生き、共に去った「武士」の行動理論とは何だったのだろう。


農民から武士へ


豊玉(ほうぎょく)という雅号を持つ彼は、新選組「鬼の副長」として世に恐れられ、が、戊辰戦争では指揮官として軍才を発揮する。

が、彼は武家の出ではない。


武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の「お大尽」と呼ばれる豪農の家に生まれた土方は実家秘伝の「石田散薬」を売り歩きながら、 各地の道場で他流試合を重ね、天然理心流剣術道場の試衛館で近藤勇と出会う。

この出会いをきっかけに新撰組「鬼の副長」としての激しい人生が始まるのである。


会津藩主京都守護職松平容保の配下として、京都の治安維持を担う新撰組を真の意味で「組織化」し、「壬生浪(みぶろ)」と呼ばれる鉄の統制集団に創り上げたのは、土方の力によると言われている。


新撰組は、長州・薩摩といった敵方のみならず、世のすべての人々から恐れられたが、その新撰組隊士は土方を恐れ、そして憧れた。

慶応3(1867)年、幕臣に取り立てられるものの、同年大政奉還、王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊するが、土方は軍備の洋式化を進める。


戊辰戦争では幕軍が官軍に追い詰められるなか、海軍副総裁だった榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」が函館を拠点として成立すると、土方は陸軍奉行並、箱館市中取締、陸海軍裁判局頭取を兼ねた。


明治2(1869)年、新政府軍の箱館総攻撃が開始される。土方は長年生死を共にした新撰組と、出陣前夜に酒を酌み交わした後、配置換えを行って、すべての隊士を己の配下からはずすのである。彼らを生き残らせるための措置であった。

その土方は、わずかな兵を率いて出陣するが、隊士全員が「新撰組として死ぬんだ」と付き従い、最後の戦いに参加する。

乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて絶命。享年35歳。


土方の人生において彼を評する言葉は「鬼」、「冷酷」、「戦上手」、「喧嘩屋」などさまざまあるが、聡明、戦略的であり、学ぶ力に優れた人間であることは、西洋式軍備の基礎を書いた「歩兵心得」を一日で体得したことなどからも、間違いない。


蒸気船を自らの力で建造するだけでも大変な難行、ましてや海軍としての軍略構築についてはあまりにも稚拙であった当事の日本で、土方は自らアボルダージュ(接舷攻撃)を考案し、フランス海軍将校を驚かせたというエピソードは、土方の戦闘指揮官としての能力の高さをうかがわせる。


その土方ならば、時代の趨勢(すうせい)がわからないはずはない。仮に始めは見えていなかったとしても、鳥羽伏見の戦いにおいて、大阪城から徳川慶喜、松平容保が味方を置いて逃げた時には、すべてが読めたはずである。


にもかかわらず、なぜ彼は滅びに向かって戦い続けたのか?

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土方の士道


土方は「自分は武士である。武士とは節義のために生きるべきものである」と考えている。

「俺は百姓の出だが、これでも武士らしく生き、武士らしく死にたい。どうやら世の移り変わりとはあまり縁のねえ人間らしい」と、隊士である原田佐之助と永倉新八に語り、袂を分かつ。

 また、病床の沖田の傍らで「総司、刀は切るためのものだ。目的は単純明快なものだが、その単純さが美しい。目的は単純で、新撰組は節義にのみ生きるべきである」と涙を流しながら、自らに言い聞かせている。(司馬遼太郎『燃えよ剣』新潮文庫より筆者が意訳)

彼は新撰組を統率するために、隊中法度という極端に厳しい規則の制定と徹底遵守を行った。反した場合は士道不覚悟として、何名もの隊士を処分することも辞さなかった。これにより命を落とした隊士は数多い。

半面、「鬼」が唯一心を通わせたお雪から「これほど心弱い人があるだろうか?」と思われるほど、情愛細やかな手紙も書いている。(同書より)とも綴っている。


これらの行動の背景には「人は本来弱いものである。その弱さを露呈してしまっては武士の目的は果たせない。弱さを徹底的に排除しなければならない」という思想があるようである。

 

 土方の人生の方向を定めた「近藤勇」は、土方に言わせれば「英雄」である。勢いに乗れば実力以上の力を発揮し、一国一城の主にもなれる「男」だと、土方自身が称している。

しかし、「勢いに乗じられなくなった時」の近藤は、力を発揮できなくなるのである。

土方は、近藤が官軍の軍門に下ることを決めた時、死にもの狂いで止めた。にもかかわらず近藤が「歳、俺は疲れた。もう自由にしてくれ」と去ったとき、「凧は風が吹けばどこまでも高く舞い上がるが、風がとまればそれまでだ。俺は鳥だ。自分の力で飛び続ける」と自らに言い聞かせている。(同書より)


滅びの美学、その正体


「人は弱いものである。故に自らの力で規律を定め、守ることで自らを制御できるようにならなければならない」

「武士とは節義にのみ生きるべきものである。節義に反し周囲に流されるのは武士として恥ずべき行為である。一度己が定めた道ならば、その道を自らの力で進み続けなければならない」という信念が、土方を縛った。


この行動理論が、彼を時流に抗わせ続けたに違いない。

彼は最期まで、自らに課した武士であった。


行動理論が時代を創る


土方の中には、「人は美しく生きるべきである。美しい生き方とは節義ある生き方のことである」という人間観、人生観が横たわっている。

土方が、この人間観、人生観の上に、「自分は芸術家である」という 自分観を持ったならば、「豊玉師匠」は別の道を歩み、時流もまた違うものになっていたのかもしれない。

やはり、行動理論が歴史を動かすのである。


                                 (おわり)




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歴史を動かす行動理論 上巻

歴史を動かす行動理論 下巻





越膳 哲哉

越膳 哲哉

株式会社ジェック 越膳 哲哉 慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 非常勤講師 座右の銘:もっともだの雰囲気づくり、かたよらない・こだわらない・とらわれない

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