歴史を動かす行動理論

歴史を動かす行動理論 竹中半兵衛(たけなかはんべえ)の軍師観を推察する  「真の黒子に徹しよ。」

行動理論-それは、人の行動を方向づけているその人なりの信念のこと。 我々は、仕事をしている中で、常に自分なりに行動を選択している。 その選択が、正しいこともあれば、失敗することもある。

歴史上の人物もまたしかり。

その時々の行動の選択で、歴史が大きく動いてきた。

何を考え、どう判断し、どのような行動を選択したのか。 戦国時代や幕末の偉人たちの行動理論をひも解いてみよう。現代の我々に共通するものが見つかるかもしれない。



目次[非表示]

  1. 1.敵を制すること神の如し
  2. 2.軍師、真の黒子に徹してこそ
  3. 3.軍師を支える行動理論



敵を制すること神の如し


天文13(1544)年、美濃斎藤氏の家臣竹中重元の子として生まれた竹中重治は、非常に女性的でたおやかな容貌であったようだ。彼が「今孔明」と呼ばれた、戦国時代を代表する軍師・竹中半兵衛である。

本名の重治より通称・半兵衛の方が圧倒的に有名であり、その名を知る人は数多い。が、彼の生きた道を残す記述は少なく、多分に私的な推察を交えながら書き進めたく思う。


岡谷繁実しげざね(館林藩の重臣)が編集した「名将言行録」には、「半兵衛は秀吉をよく助け、持てる力を最大限に発揮し軍略を整え、敵を征圧する智謀はあたかも神のようであった。そのため秀吉は半兵衛を深く信頼し、 何事につけても第一に半兵衛に相談し、その意見を求めた(意訳)」とある。


「秀吉に天下を取らせた男」として、豊臣秀吉の家臣という印象があるが、どうも正確には信長の家臣のようだ。半兵衛は信長が秀吉に付けた与力武将である。つまり、半兵衛と秀吉は、立場は秀吉が上であるが、主従関係ではなく、同僚という方が近い関係であったらしい。

半兵衛は、戦況分析に長けていた。自身が優れた軍略家でもあった秀吉をはるかにしのぐものであった。

例えば、秀吉が近江国の横山城において、小谷城の浅井勢と対峠(たいじ)した際のことである。

数千騎の浅井勢が城を出て南方へ向かったとの知らせを受けた秀吉は、「浅井勢は横山城を挟撃しようとしているに違いない」と判断し、迎撃の命を出そうと考えた。が、浅井勢の動きを観察した半兵衛は、「後背地を占拠し挟撃しようというのは虚策である。実策は、当方を出撃させ、叩き、少しずつ戦力をそぎ落とすことに他ならない。今は場内の守りを固め、逆に相手に攻め寄せさせるのが上策である」と進言し、事実その通りになった。

半兵衛はその優れた戦況分析力から、独断で陣立てを変更することも多くあったようである。 しかし、中には半兵衛のこの措置を快く思わない者もいる。

「今回は半兵衛が陣替えを指示してきても従わぬ。すべてを掌握したかのような態度は不快である」と宣言していた武将は、半兵衛が視察に来た際、「顔も向けず目も合わさず」という態度をとった。

当の半兵衛は一向に意に介さず「お布陣の場所、勇みだったお旗色、見事なもの。秀吉殿も感服なさっています」と、感心したように言う。 その言に、思わず顔を向けたその時を逃さず笑みを交えた視線を合わせ、「秀吉殿の仰せでは、足軽の備えなど、もう少し変えたならばさらに良くなるであろうとのこと」とさらに言葉を重ねた。

秀吉の言として意見を出され視線を無視できない状況に、半兵衛の意見であることはわかっていても、「ごもっともな仰せ」と陣替えを承諾せざるを得ない。さらにはその武将の反感を買うのではなく、「さすがに、竹中半兵衛、断ることができぬよう仕掛けてくる」と感服させてしまうのである。



軍師、真の黒子に徹してこそ


「軍師とは技術者である。いや、少なくとも技術者であるべきだ」という行動理論が、竹中半兵衛を軍師として支えたのではないだろうか。

戦という状況において、戦場戦況を分析し、勝つための方策を立案し、実行部隊へ確実に伝え、己が導き出した計算式通りの状況を生み出すことのみに、すべての力を注ぐ。この一点が軍師の役割であり、功をなし、手柄をたて、所領を配することは軍師にとっては不要なことである。

作戦通りに事をなし、賞賛されるべきは実行者たる武将であり、だからこそ、軍師は武将から敬われる。 もしも、武功までも軍師が得たならば人の嫉みを生み、軍は機能しなくなる。なぜならば、人は、「己が認められたい生き物である」からである。

この心の機微を知り尽くしていたからこそ、半兵衛は「自軍の武将を見事なまでに動かし」、「神の如く敵を制する」ことができたのであろう。


黒子に徹する行動理論がなければ、軍師たり得ない。

「黒子に徹する」という言葉は便利な言葉で、多少の企画力はあるものの実行力が乏しい場合、逃げ道としても使える。表舞台に立たず、実行の責任を負わず、その企画を立案したことのみを手柄とし評価を得ようとする者もいるのが世の常である。

しかし、「真に黒子に徹する」ことは、企画立案のみに終始するということではない。実行者に実行させるという影響力を発揮しなければならないのである。

では、どのような行動理論が影響力のある黒子を作り出すのだろうか?


黒子は本来、表舞台に立てる実行力を持っていなければならない。なぜならば、実行者は黒子の持つその隠れた実行力を感じ取り、そこに共鳴し、優れた作戦を信じ、行動にうつすからである。

つまり、軍師は、同時に優れた実行者でなければならないのだ。

その点、半兵衛は見事な実行者でもあった。それを証明するのが、おそらく、半兵衛を語る最も有名なエピソードである、※「稲葉山城乗っ取り」であろう。


半兵衛が仕える斎藤龍興は、その女性的な容貌から半兵衛を侮っていた。龍興の度重なる仕打ちに対し、懲らしめるべく半兵衛は美濃北方城主・安藤守就と一計を案じて行動にうつす。稲葉山城に人質として送っていた弟の久作に病と偽らせ、屈強の士数名を看病のため城中へ送り込 ませたうえで、自身は見舞いを名目に、十人ばかりを引き連れて城へ向かう。


城内で集結した半兵衛らは武具に身を固め、大広間に詰めていた斎藤飛騨守を斬り伏せ、異変に駆け付けた家士数人をも斬り捨てると合図の鐘を突く。山麓に待機する安藤守就千が間髪入れず一斉に城内へと なだれ込み、龍興はなすすべなく城から逃げ落ちることとなった。


稲葉山城はわずか十数名の「クーデター」により占領されたのである。

織田信長が「稲葉山城を明け渡すならば美濃半国を与えよう」と持ちかけるが、半兵衛はこれを拒絶したのみならず、のちに城を龍興に返す。

半兵衛は、作戦立案のみならず作戦実行者としての力と覚悟も併せ持っているのである。



軍師を支える行動理論


軍師は技術者である(観)。技術者たるもの成果を生み出すことのみに専念することで(因)使命を果たすことができる(果)。軍事技術者に徹せよ(心得モデル)」


「軍師は黒子である(観)。黒子は実行者が動き結果を出して初めて (因)役を成す(果)。実行させよ(心得モデル)・己の評価を求めるな(心得モデル)」


これこそが、半兵衛を軍師たらしめている行動理論ではないだろうか。



※「稲葉山城乗っ取り」の背景については諸説あるが、半兵衛が実行したことは事実である。


                                 (おわり)




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越膳 哲哉

越膳 哲哉

株式会社ジェック 越膳 哲哉 慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 非常勤講師 座右の銘:もっともだの雰囲気づくり、かたよらない・こだわらない・とらわれない

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